横響650回定期公演の歩み

1859(安政)6年7月1日 【横浜開港】

横浜開港。日本を訪れる外国人による演奏会が横浜の各地で開かれるようになった。

1870(明治3)年 【西洋劇場ゲーテ座創設】オランダ人ノールトフーク・ヘフトによって本町通りに、日本の近代音楽・演劇の創成期に多くの影響を与えた西洋劇場ゲーテ(陽気な)座が創設され、音楽や演劇が本格的に公演されるようになった。現在、横浜山手のゲーテ座では毎年5月に、横浜交響楽団・(社)横浜演劇研究所・岩崎博物館(ゲーテ座記念)主催で、その創設者・ヘフト氏を偲んで「ヘフト祭」を開催している。

1882(明治15)年 【アマチュア・オーケストラ結成

外国人居留地の外国人が中心となって「ヨコハマ・アマチュア管弦楽団」が結成され、さまざまな西洋音楽が演奏された。この中には日本人も何人か    加わっていた。

1889(明治22)年4月11日 【横浜市誕生】

1909(明治42)年7月1日【横浜市歌制定】

横浜開港50年記念祭が盛大に開かれ、「横浜市歌」が森林太郎(鴎   外)(作詞)、南能衛(作曲)列席のうえ、高野己之助指揮、横須賀海軍軍楽隊の伴奏、市内200人の小学生によって歌われた。

1917(大正6)年【横浜開港記念会館創設】

1923(大正12)年9月1日【関東大震災】

1932(昭和7)年12月【横浜交響楽団創立】

発起人は小船幸次郎(25)、八十島外衛(29)、そして小船の良き相     談相手であった田辺茂、高橋鉄太郎の4人だった。名称は「横浜交響管弦楽団」とした。

1933(昭和8)年7月1日【横響第1回定期演奏会】

横響第1回定期公演を横浜開港記念会館でアマチュアと職業音楽家によつ混成楽団(プロ29人、アマ30人、計59人)として開催。プログラムには「市民諸賢」として、「今から15・6年前に、我々の先輩が、横浜フィルハーモニーと称する管弦楽団を組織して、当時の日本の楽壇に重きをなして居た事を、我々は常に誇りに感じて居た。今回組織された管弦楽団は、横浜フィルハーモニーとは何の交渉もなく組織さたが、横浜を愛し、横浜に在らねばならぬ管弦楽団を立派に育て上げて行き度い気持ちには変わりはない。本団の団員は横浜に住むアマチュアと僅かな職業家とである。生まれたばかりの本団は未だ団員も不足だし、下手でもある。併し今の横浜ではこれ以上は 望めない。これを諸賢と共に育てゝいかねばならぬ。今夜お集まりの諸賢が本団のフアンとなって、今後の活躍にご声援をお願いする」と掲載。

「ジークフリート牧歌」(ワーグナー)、交響曲第94番「驚愕」(ハイドン)等を演奏して演奏会は一応成功したが、交響楽演奏では生計が成り立たないとプロは退団し、アマチュア団員のみ残った。しかし、意欲を失った小船は作曲、指揮に専念するため横響から離 れた。八十島は博士号取得のため国内留学し、この時期横響から離れていたが、その後復帰し、       小船を励まし、アマチュアのみにより演奏活動再開した。

1936(昭和11)年11月25日【横響第2回公演】小船幸次郎が復帰し、第2回定期公演を朝日講堂でアマチュアのみによって開催した。曲目は「運命」「ペールギュント組曲」他であった、

1941(昭16)年2月3日【「横浜交響楽団」の呼称】

第18回定期演奏会から正式名称を「横浜交響楽団」とする。黛敏郎入団。

1943(昭18)年8月6日【戦争による演奏活動の中断】

太平洋戦争が熾烈となり、第29回で演奏会活動は中断したが、慰間演奏等は暫く続ける。

1946(昭21)年7月28日【戦後の再建(活動再開)】「横響再建二付イテノ御通知」(八十島氏の呼びかけ)

運営方針その他の懇談会 同時:8月4日(日)午後1時 場所:桜木町駅前中区役所会議室

1946(昭21)11月16日【戦後再建第1回演奏会】

通算第30回定期演奏会を山手フェリス女学院講堂で開催、シューベルト「交響曲第3番」他。

1950(昭25)12月17日【第1回横響・第九演奏会】

第48回定期演奏会(S)笠井秋江(A)松内和子(T)岩崎成章(Bar)畑中良輔 (Chr)C.I.E(ABS)、木曜会、国大、平沼高校。伊勢佐木町のフライヤージムで、聴衆は7,000   人であった。

1951(昭26)9月16日【横響第50回記念定期演奏会】

於CIEホール。指揮:小船幸次郎、「ホヴァンシチーナ」序曲(ムソルグスキー)、最後の7つの歌(マーラー)、交響詩「フィンランディア」(シベリウス)、交響曲第9版「新世界より」(ドヴォルザーク)

1953(昭28)年8月10日【オペラ「四人の聖者」日本初演】

西日本水害救援募金「オペラ鑑賞のタベ」におい てヴァージル・トムソン「四人の聖者」他を上演 オクタゴン劇場、ニューヨーク・タイムズ誌に掲載される。

1953(昭28)11月【小船幸次郞、神奈川文化賞を受賞】横響との演奏活動、横浜合唱連盟の創立、51年横浜市大、52年横浜国立大学教育学部の音楽講師等の功績で第2回神奈川文化賞を受賞。

1954(昭29)年3月15日【横浜交響楽団横浜文化賞受賞】横浜交響楽団が第2回横浜文化賞を受賞、「貴交響楽団は昭和7年結成以来幾多の困難を克服して楽団の結束を固め小船氏の技術指導と八十島氏の運営補助のもとによく市民の共感を得て64回に及ぶ定期公演記録を樹立し本市の音楽文化の向上に寄与された業績は顕著である依って茲にこれを賞する。昭和29年2月15日 横浜市長平沼売三 横浜市教育委員会」

1954(昭29)5月9日【開国百年祭記念演奏会】小船幸次郎「横浜組詩曲1947」、ベートーベン「第九」等を演奏、フライヤージム(横浜公園)。

1954(昭29)11月21日【県立音楽堂落成―初の定期公演― 以降毎月定期公演】

横響は第68回定期から今日まで定期公演会場として使用している。初の定期記念プログラムに横浜市教育委員会社会教育課長遠藤要、指揮者小船幸次郎両氏の挨拶文掲載。小船は県立音楽堂が開設されたことから「横響の危機」を訴え、アマチュア・オーケストラとしての「横響」の存在意義を説き、今後積極的に毎月の定期公演を行うことを宣言した。

1955(昭30)3月13日【巡回演奏会開始】

横浜市教育委員会主催による市域周辺小中学校への巡回演奏会開始。以後年3~4回の恒例事業。

1956(昭31)11月3日【神奈川文化賞贈呈式出演】ブラームス「交響曲第1番」を演奏、神奈川県立音楽堂。

1957(昭32)年2月20日【テデスコ「ギター協奏曲」日本初演】作曲者テデスコから東洋初演、日本初演のメ        ッセージ届き、第95回定期演奏会プログラムに掲載した。

1957(昭32)7月24日【第100回定期記念演奏会】

記念誌発行、横浜市長:平沼売三、横浜市助役:田中省吾、横浜市教育委員会、神奈川県知事:内山岩太郎、神奈川県議会議長:山口涼、横浜商工会議所会頭:半井清、神奈川新聞社社長:佐々木秀雄各氏の祝辞を掲載 横響常任指揮者:小船幸次郎、横響理事長:八十島外衛、横響運営委員長:吉崎巌の挨拶文掲載(神奈川県立音楽堂)。

1957(昭32)7月25日【NTVテレビの横響紹介】

NTVテレビ“私は知っている"(13:25‐13:40)に小船・八十島・浜中の 3氏出演 横響第100回記念定期演奏会風景も紹介。

1957(昭32)8月5日【NHKテレビ出演】NHKテレビ人気番組「私の秘密」に出演 「新世界交響曲」第4楽章演奏(NHK放送スタジオ)。

1957(昭32)9月25日【オペラ「カルメン」全曲演奏(演奏会形式)】

第102回定期演奏会 神奈川県立音楽堂で演奏会形式ながら初めて本格的オペラの全曲演奏 以後の横響オペラシリーズの契機となる。

1959(昭34)年3月18日【オペラ「椿姫」全曲演奏(演奏会形式)】

第120回定期演奏会 神奈川県立音楽堂。

1960(昭35)4月27日【オペラ「アイーダ」全曲演奏(演奏会形式)】

第133回定期演奏会 神奈川県立音楽堂。

1960(昭35)11月16日【オペラ「セビリアの理髪師」全曲演奏】

第140回定期演奏会 神奈川県立音楽堂。横響手作リオペラとして、簡易装置ながらオーケストラが初めてピットで演奏。

1961(昭36)年1月26日【第9回横浜文化賞贈呈式出演】

国歌、市歌、「越天楽」「ニュールンベルグの名歌手」前奏曲他を演奏(神奈川県立音楽堂)。

1961(昭36)9月8日【練習所火災】漏電によると考えられる火災で改装後間もない練習所(旧震災記念開館・老松会館講堂・付属倉庫)と楽器・楽譜・資料を大量に焼失。

1961(昭36)年9月27日【第150回定期記念演奏会】

9月8日の練習所の火災で練習所は再度神奈川会館に世話になり、楽譜焼失で一部曲目変更を余儀なくされたが川響からの借譜などで無事開催(神奈川県立音楽堂)。

1961(昭36)10月28日【横響災害救助演奏会】

黛敏郎、三宅春江、奥田良三、栗本正、高木東六、大内喜代子、小林 武史ら各氏の友情出演 黛敏郎氏は「カルメン組曲」を指揮 このはか市・県。一般市民から拠金         等の支援を受け再建できる。(神奈川県立音楽堂)

1962(昭37)年5月23日【ヴェルディ「レクイエム」】

八十島理事長の寄贈楽譜。何年も演奏機会がなかったもの。日本初演はNHKがイタリア・オペラを招いた際イタリアの指揮者・ソリスト・合唱で演奏されたが、日本人のみによる演奏は、横響が初演(神奈川県立音楽堂)。

1962(昭37)7月25日【オペラ「ラ・ボエーム」全曲上演】

横響創立30周年・第160回定期演奏会を記念してプッチーエの「ラ・ボエーム」を簡易装置ながら横浜演劇研究所所長加藤衛氏の演出で上演 神奈川県立音楽堂。

1963(昭38)年11月3日【福島県文化祭(郡山市)】

県外初の依頼演奏旅行、フランク「交響曲二短調」、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」他 郡山市民会館。

1965(昭40)年3月24日【オペラ「コジ・ファン・トッテ」全曲上演】

第192回定期演奏会でモーツァルト「コジ・ファン・トッテ」を簡易装置による上演 神奈川県立音楽堂。

1965(昭40)年11月24日【第200回定期記念演奏会】

記念誌を発行 第14回横浜文化祭参加 主催:横浜交響楽団、横浜市教育委員会、ライオンズ国際協会302‐E5地区 祝辞:神奈川県知事 内山岩太郎、横浜商工会議所会頭 李家孝、ライオンズ国際協会302‐E5地区ガバナー 小山善次郎、横浜市長 飛鳥田一雄、横  浜市教育委員会 佐藤美子、横浜市教育委員会(神奈川県立音楽堂)。

1966(昭41)年2月23日【オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」全曲公演】

第203回定期公演、県立青少年センターホール、主催:横浜交響楽団、横浜市教育委員会、後援:神奈川新聞社、協賛:劇団創芸、劇団友の会、横浜小劇場。「セヴィラの理髪師」で初めて装置を作り、同様の形式で「ラ・ボエー  ム」、簡易装置で「コジ・ファン・トッテ」、今回は青少年センターホールを使用し本格的な装置で上演した。

1966(昭41)年11月18日【小船幸次郎・八十島外衛両氏第15回横浜文化賞受賞】

11月3日発表、18日贈塁式。

1967(昭42)年6月28日【サブタイトルに「青少年のための音楽会」追記】

 第219回定期演奏会(県立音楽堂、主催/横響・横浜市教育委員会)から、サブタイトルに「青少年のための音楽会」を追記し、市立小/中/高等学校、特別養護学校を招待。現在も継続。

1968(昭43)年5月29日【オペラ「ラ・ボエーム」全曲上演】

第230回定期演奏会、オペラ「ラ・ボエーム」全4幕。県立青少年センターホール。

1968(昭43)年7月27日【飯田労音7月例会】

長野県飯田市飯田東中学校体育館で「新世界」、「中央アジアの草原にて」、   「ハレルヤコーラス」他。

1969(昭44)年12月10日【第九演奏後の「蛍の光」演奏】

第249回定期演奏会プログラムに「蛍の光」聴衆・演奏者全員合唱との記載。来場者をお見送りする趣旨。「聴きに来てくれた客より先に席を立って帰るのはアマチェア精神に反する」との常任指揮者小船幸次郎氏の考え。以後、現在も継続。

1970(昭45)年1月28日【第250回記念定期演奏会】

プログラムに、神奈川県知事:津田文吾、横浜市長:飛鳥田  一雄、横響創立者・理事長:八十島外衛、横響創立者・指揮者:小船幸次郎各氏の挨拶文「横響心のふるさと」小船幸次郎(神奈川県立音楽堂)。

1970(昭45)年2月25日【ベートーヴェン生誕200年記念】

ベートーヴェン生誕200年記念の年、第251回定期公演を第1 回として第261回の第九までをベートーヴェン・チクルスとして記念演奏。

1970(昭45)年5月26日【青少年オペラ観賞会「ヘンゼルとグレーテル」全曲上演】

第254回定期と青少年オペラ観賞会として5月24日(日)午前11時、午後3時、5月26日(火)午後6時30分 の3回県立青少年センターで開催。

1971(昭46)年3月24日【リスト「ファウスト交響曲」日本初演】

第264回定期演奏会、神奈川県立音楽堂、日本初演。

1971(昭46)年3月24日【横響合唱団の発足と初出演】

「横響と荘厳ミサを歌う会」メンバーが中心になって71年1月に「横響合唱団」として誕生。第264回定期のリスト「ファウスト交響曲」から男声合唱出演。

1971(昭46)年5月10日【ヘフト祭開催】

横響、横浜演劇研究所、イギリス館、横浜市教育委員会の共催、横浜ゲーテ(Gaiety)座の創立者ノールトフーク・ヘフト氏の功績を顕彰、墓参後イギリス館で横響は室内オペラ「奥様になった女中」を上演 以後毎年講演・演奏を続けている。(外人墓地)

1971(昭46)年6月26日【青少年オペラ観賞会「奥様になった女中」他上演】

「バスティアンとバスティアンヌ」「奥様になった女中」を6月26日(土)午後6時30分・6月27日(日)午後2時・午後7時の3回 第267回定期演奏会として6月29日(火)午後6時30分の計4回のステージを日本語の作詞で上演 県立青少年センター ホール。

1972(昭47)年7月18日【創立40周年記念オペラ「蝶々夫人」全曲上演】

7月15日(土)16日(日)18日(火)3回公演、第280回定期、県立青少年センターホール。

1973(昭48)年4月25日【小船幸次郎「日本現代音楽協会」名誉会員】

昭和14年小船29才の時、国際現代音楽 協会本部で「弦楽四重奏曲第1」が入選、第17回国際現代音楽祭(ポーランドのワルシャワ)で演奏された。当日日本現代音楽協会名誉会員に推挙され、記念に「祭の頃」が演奏された。

1974(昭49)年3月31日【第300回記念定期演奏会】

プログラムに指揮者:小船幸次郎「300回目の演奏会を迎えて」、理事長:八十島外衛「第300回記念演奏会に思う」を掲載 入場料200円(神奈川県立音楽堂)。

1974(昭49)年6月30日【練習所を横浜市教育文化センター・音楽練習室に移転】

 市民ギャラリーの移転とともに長年市民のためのオーケストラ活動の実績と今後の横響の活動の進展を願って飛鳥田市長をはじめ宮内市教育委員会事務局総務部長ら多くの関係者の骨折りで「横響専用練習所」を併設して提供してくれた。当館の企画設計施工の各段階でスペース、楽器庫、楽譜書庫、音響吸音壁、外部防音、ピアノ使用の床強度補強などその都度主に常任指揮者小船と協議を重ねてきた。..他の施設や催しに影響なく存分に練習に励めるように地階の位置が選定された。最近は空調設備など各種施設の運転管理の関係もあり会館管理課の一括管理に組み込まれているが、当初は設置の経緯から独立した管理体制で火気取締責任者は横響理事長となっていたものである。

1975(昭50)年1月【県民ホールの開館】

本格的なオペラを上演するための機能と設備を持つ。以後オペラ・第九に度々使用 。

1975(昭50)年7月22日【オペラ「魔笛」全曲上演】

県民ホール、会員券500円。

1975(昭50)年7月28日【テレビ朝日・黛敏郎「題名のない音楽会」出演】

シューベルト「未完成」ハイドン「驚愕」他演奏、黛敏郎が入団当時を忍び一緒にコントラバスを演奏(渋谷公会堂)。

1977(昭52)年7月24日【オペラ「ヘンゼルとグレーテル」全曲公演】

横響第340回定期公演と「子供のためのオペラ公演」としてマチネーで公演。県民ホール、経費総額450万円、各種補助・寄付・入場料で補填。

入場料大人1,000円・中学生以下400円・定期会員800円。

定期公演2,200人、マチネー小中学生2,300人、合計4,500人 出演者,裏方200人。

1977(昭52)年11月4日【横響マニラ親善公演】

民間の国際文化交流団体の斡旋。主催:マニラ市各種日比親善団体、後援:横浜市・神奈川県。11月4日フィラム・ライフ・オーディトリウムで「新世界」他、 5日フォーク・アート・シアターで「アランフェス協奏曲」「ラプソディー・イン・ブルー」他を演奏。

1978(昭53)年5月24日【第350回定期記念演奏会】

ハイドン・オラトリオ「天地創造」。プログラムに長洲一二神奈川県知事、細郷道一横浜市長の祝辞(神奈川県立音楽堂)。

1978(昭53)年6月27日【小船幸次郎、文化庁から表彰】

昭和53年6月27日文化庁創設10周年の記念式典で国の芸術文化の発展  に寄与したことで表彰された。

1978(昭53)年7月1日【小船幸次郎、警視庁から警察協力章の受章】

昭和53年7月1日警察庁長官から神奈川県警察音楽隊創生期以来の育成の功績で警察協力章が贈られた。

1979(昭54)年4月29日【小船幸次郎の叙勲】

春の叙勲で長年の音楽活動にたいして勲五等双光旭日章を受賞、7月に 受賞祝賀演奏会を開催。

1980(昭55)年11月【常任指揮者甲賀一宏】2年前から体調の勝れない小船幸次郞を補佐してきた副指揮者の甲賀一宏が常任指揮者に。

1981(昭56)年3月29日【オペラ「カルメン」全曲上演】

第383回定期演奏会、県民ホールでの本格上演。プログラムに横浜交響楽団理事長宮内治夫の挨拶掲載。

1981(昭56)年11月17日【八十島外衛前理事長逝去】

1981(昭56)年12月19日【「横響・第九」NHK‐ FM放送】

第392回定期演奏会、NHK横浜FMで放送、指揮者甲賀一宏。

1982(昭57)年【横響創立50周年】

1982(昭57)年2月17日【常任指揮者小船幸次郎逝去】

横響の生みの親小船幸次郎逝去、享年74歳。

1982(昭57)年6月9日【アジア太平洋都市会議開会式典】

横浜市の県民ホールで数日間に亘って開催された国際会議「アジア太平洋都市会議」の開会式典に出演 国歌、横浜市歌、「戴冠式行進出」「フィンランディア」「越天楽」等を演奏。

1982(昭57)年9月12日【創立50周年第400回定期記念演奏会】

ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第5番(皇帝〉」、ショスタコーブィチ「森の歌」他、プログラムに細郷道一横浜市長の“祝辞”掲載。

1982(昭57)年11月3日【横浜交響楽団神奈川文化賞受賞】

横響は定期演奏会400回を機に昭和57年度の神奈川文化賞を受賞。神奈川県知事・長州一二、神奈川新聞社社長・桶本正夫。

1983(昭58)年4月【年8回の定期演奏会】

昭和30年度から続けてきた毎月定期演奏会を巡回演奏会の充実を図ることとして昭和56年度から年8回に変更。

1983(昭58)年12月【第2回「安藤為次」記念賞を受賞】

神奈川県の教育・文化に貢献した団体に贈られる安藤為次記念賞を横響が受賞。この賞は一般団体と高校の優れた活動を対象としたもので、横響の定期演奏会と巡回演奏の県民文化への貢献が評価された。

1984(昭59)年4月25日【入場料金改定】第415回定期演奏会から入場料金を500円に、「第九」を1000円に値        上げ。

1986(昭61)年10月12日【甲賀一宏、「露風賞」を受賞】

横響常任指揮者・横響合唱団指揮者の甲賀一宏が「三木露風賞」を受賞。

1986(昭61)年11月9日【栄区発足記念第九演奏会】

「エグモント」序曲、「第九」(県立柏陽高校体育館)。

1987(昭62)年9月20日【横浜水道創設100周年「森と湖の音楽会」】

横浜市の水道水源の地津久井町で水道創設100周年を記念して音楽会開催 「水上の音楽」「白鳥の湖」「ウィーンの森の物語」「新世界」他、 津久井町文化福祉会館。

1988(昭63)年1月29日【理事長宮内治夫逝去】

前年10月から入院療養中の宮内治夫理事長逝去、享年68歳。

1988(昭63)年8月7日【新理事長に小機智功就任】

前理事長逝去に伴い、小磯智功が理事長に就任。1955年4月入団、1963年からコンサートマスターとして活躍、当時横浜市会事務局長。

1988(昭63)年11月25日【甲賀一宏出版記念コンサート】

横響の指揮者甲賀が童謡集「ぼくの団地はクリスマスツリー」を出版、これを記念してFM東京ホールでコンサートを開催。

1989(平1)年4月2日【横浜YES博覧会開幕イベント出演】

博覧会YESホールでの開幕イベントに本団と合唱団が出演 ダ・カーポと管弦楽、オペラアリア集など。

1989(平1)年6月2日【横浜市政100周年・開港130周年記念市政功労者表彰】

6月2日横浜港開港記念日に新横浜の横浜アリーナにおいて「横浜市政100周年・開港130周年記念式典」がとりおこなわれた。この場で1,000組の故人、個人、団体が市から表彰された。横響も50年にわたる演奏活動に対して表彰状を戴く。式典では横響も出演して神奈川フィルハーモニーと式典音楽を担当。

1989(平1)年8月6日【指揮者甲賀一宏、第19回日本童謡賞を受賞】

甲賀氏と詩人の佐藤雅子氏による童謡曲集「ぼくの団地はクリスマスツリー(新しいこどものうた)」(音楽の友社刊)が日本童謡協会の第19回日本童謡賞を受賞。これを記念して横響第457回定期演奏会でも一部を演奏。

1990(平2)年4月25日【故細郷道一横浜市長追悼演奏会】

横響に関心と励ましをよせていただいた細郷道一横浜市長が急逝された。第463回定期演奏会を追悼演奏会とし、プログラムに小磯理事長の一文を掲載。

1992(平4)年2月9日【横響合唱団創立20周年】

第477回定期演奏会を記念演奏会とし、バッハの「マタイ受難曲」の演奏と「合唱団記念誌」を発行。

1992(平4)年8月9日【創立60周年記念演奏会】

横響は創立60周年を迎え第481回定期公演にオペラ「カルメン」(演奏 会形式)を演奏 記念プログラムに高秀秀信横浜市長の祝辞、小磯理事長の挨拶を掲載。

1992(平4)年8月9日【共催名義の変更】

定期演奏会の主催者が第480回公演までは横浜変響楽団と横浜市教育委員会の共催であったが、担当の文化事業課が市民局に移管になったことに伴い第481回公演から主催者名義が横浜交響楽団と横浜市の共催、横浜市教育委員会の後援になった。

1994(平6)年10月26日【県立音楽堂会館40周年、ヴェルディ「レクイエム」】

第499回定期演奏会、神奈川県立音楽堂開館40周年に寄せて「県立音楽堂とともに」の一文を小磯理事長名で当日プログラムに掲載(神奈川県立音楽堂)。

1994(平6)年12月10日【横響第500回定期記念演奏会】

第1部 「青少年のための音楽鑑賞講座」〈ベートーベンの生涯と第九〉、第2部 第500回定期記念演奏会 ベートベン「第九交響曲」他(県民ホール)。

1994(平6)年12月20日【第500回定期記念演奏会祝賀会】

横浜市馬場助役、横浜市文化振興財団木下専務理事他関係  者多数出席、会場横浜郵使貯金開館(メルパルク)。横響記録誌の発刊。「横響《60年・500回の歴史》」として第200回演奏会以降の横  響の活動記録を中心に編集集約し横浜音楽文化史に一足跡を記す。

1995(平7)年8月13日【ハーモニカ渡来100周年記念】

第505回定期演奏会でハーモニカ奏者崎元譲を招き、ムーディ「トレド(スペイン幻想曲)アーノルド「ハーモニカ協奏曲を演奏。

1999(平11)年5月13日【プログラムとサブタイトル】

この年度からプログラムにサブタイトルを掲載するようになった。535回<自然と音楽>536回<交響曲の流れ>等。

1999(平11)年12月15日【横響・第九演奏会50回公演記念】

第540回定期演奏会の「第九」が1950年の第1回から数えて50回の連続公演記録になった。

2000(平12)年10月15日【横響合唱団創立30周年】

第546回定期演奏会《バッハ没後250年》に「ミサ曲ロ短調を演奏し、30周年記念誌を発刊した。

2003(平15)年6月15日【横響創立70周年記念演奏会】

第568回定期演奏会、ブルックナー「交響曲第9番」を演奏した。

2003(平15)年7月25~27日【第31回全国アマチュア・オーケストラフェスティヴァル横浜大会】

横浜みなとみらいホール。曲目:指揮/岩村力/(バーバー)年弦楽のためのアダージョ、(グローフェ)グランド・キャニオン、指揮/現田茂夫/(コープランド)交響曲第3番。

2004(平16)年12月22日【県立音楽堂開館50周年記念・横響第九特別演奏会】

音楽堂で最も多く定期公演している横響が、第九を横響合唱団と共に記念演奏し、祝した。

2005(平17)年8月7日【マーラー「復活」演奏】

第584回定期演奏会で、団員の最も希望の多かったマーラー「交響曲第2番《復活》」を演奏。楽器編成が大きいため会場を横浜みなとみらい・ホール(大)に移した。(S)柳澤涼子(A) 庄司祐美(合唱)で好評あった。

2007(平19)年4月28日【小船幸次郎生誕100年】

横響創立者・小船幸次郎の生誕100年を祝して、第598回定期演奏会に、自身の作品「祭りの頃」を演奏、続く第599回には「組詩曲《横浜1947年》」、第600回には「琴と管弦楽」を演奏した。横響編著「市民のオルガン-(小船幸次郎と横浜交響楽団)」(2500円)を神奈川新聞社から発刊した。

2007(平19)年7月29日【横響600回記念定期演奏会】

横響合唱団と共に「横浜市歌」、シベリウス「フィンランディア」、ドヴォルザーク「交響曲第9番《新世界より》」を演奏し、終演後来場者と共に祝の宴を開いた。

2009(平21)6月21日【横浜開港150周年】

第615回定期演奏会。「横浜市歌」を開港50周年記念祭で初演された編成で赤い靴ジュニアコーラスと横浜少年少女合唱団と共に演奏、その後現在の編成で横響合    唱団が加わり演奏した。小船幸次郎「組詩曲《横浜1947》」山田耕筰「《黒船》序景」ビゼー「《カ   ルメン》より」を演奏。

横響編著「横浜市歌」を発刊。来場者に無料配布した。市立各学校、各図書館に配布した。

2009(平21)年12月13日【横響・第九定期公演60回記念】

第619回定期演奏会。プログラムに60回の歩みを掲載した。

2010(平22)年10月31日【横響合唱団創立40周年】

第626回定期演奏会。ベートーヴェン「ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)」(S)朴瑛実(A)布施奈緒子(T)君島広昭(B)井口達。記念誌を発刊。

2011(平23)3月11日【東日本大震災】

東北地方太平洋沿岸に大津波、福島第一原子力発電所事故発生。死者・行方不明者が約2万人の大災害となった。

2011(平23)3月12日【震災翌日の演奏会】第629回定期演奏会。まだ災害の規模ははっきりしない段階ではあったが、県立音楽堂には公演の支障がないということで、団員と来場者の集まりを危惧しつつ、リハーサルなしで公演を決行した。ブラームス「大学祝典序曲」マー       ラー「交響詩《花の章》」チャイコフスキー「交響曲第6番《悲愴》」。

2011(平23)10月26日【横響・県立音楽堂500回公演達成】

 第634回定期演奏会をもって、県立音楽堂での公演が500回になった。ハイドンのオラトリオ「四季」を演奏した。

2011(平23)11月13日【横響気仙沼演奏会】

はまなすホール、横響団員50人が横浜からバス2台で気仙沼市を訪問。宮城県・気仙沼市教育委員会後援・トヨタ自動車協力で、東北支援演奏会を開催。甲賀一宏指揮によるベートーヴェン「交響曲第5番《運命》第1・4楽章」他管弦楽曲、みんなで歌う「ふるさと」「赤とんぼ」、アン      コールに宮城県民謡「大漁唄い込み」など。来場者150名。

2012(平24)年【横響創立80周年】

創立80周年公演として第1回公演の曲目や各節目の曲目を8回の各公演プログラムに散りばめた構成とした。2013年4月から長年使用してきた練習所の教育文化セン  ターが閉鎖されるため練習所の移転が発生し、その準備期間となり、厳しい年となった。

2013(平25)年4月【横浜市文化センター閉鎖、横響練習所の移転】

 練習所を主に吉野町市民プラザ・ホール(南区)とし、横浜市技能文化会館等を臨時の練習所とした。楽器倉庫として近くのビルの1室を借りた。新しい環境で横響2013をスタートした。

2013(平25)年7月28日【横浜音祭2013連携イベントに参加】

 第648/649/650/651回の定期演奏会4公演を「横浜音祭2013」連携イベントとして参加した。

2013(平25)年10月27日【横響第650回記念定期演奏会】

 <ヴェルディ生誕200年>とし、歌劇「椿姫」第1幕および第3幕への前奏曲、「レクイエム」演奏。

 (S)岩下晶子(A)谷地畝晶子(T)宮里直樹(B)田中俊太郎、横響合唱団。